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限界集落をめぐる世代と地域

以上をまとめるなら、家族の視点から見る限界集落問題とは、まず次のような問題だということが分かってくる。すなわち、日本社会の明治以降の近代化の過程の中で、とくに戦前から戦後にかけての昭和の大変動期を、日本の多くのむらは家族の変化・家族の広域拡大化によって乗り切ろうとした。限界集落問題とは、その結果として生じてきている問題である。昭和の歴史は経済発展と恐慌、そして戦争から敗戦を経て、戦後の高度経済成長へとつながっていった。その最後にはバブル経済を引き起こしたが、次の平成期はそのバブル経済の崩壊を経て、二〇〇〇年代の行財政改革期まで、暗い時代に突入していくこととなる。それでもこの間、昭和期を通じて構成された新しい家族の体制は、この新しい社会にもうまく適応し続けてきた。

問題は二〇一〇年代にある。昭和から平成にかけてつくり上げられてきた体制が、戦前世代の退出という形でいま大きな転換局面を迎えている。広域に広がる家族は、次の段階に入るべきことを余儀なくされているが、その際の人々の対応のあり方次第で、一部の地域の自然消滅のような最悪の事態が生じる可能性があるかもしれない。これが、限界集落論の提起した真の問題なのであった。他方で、むらの家族を調べていけば、多くの場合、最悪のことが起きないような準備が着実になされてきたことも分かる。問題は、その準備を確実なものにしていけるかどうかである。家族の視点から見た限界集落論は、ここからさらに、親・子・孫の関係にも置き換わりうる、昭和を代表する三つの世代ごとに、限界集落問題を軟着陸させるための課題を提起できる。

まず第一には、いま集落に残っている人に、いかに長く生活を続けてもらえるか。これはとくに昭和一桁生まれ世代の課題となる(①)。それに対し、すでに仕事場からの引退が始まっている戦後直後生まれ世代に関しては、その中に含まれる、ふるさとに戻る人の帰還をいかに実現するか。そのタイミングをいかにそろえていくかが課題となる(②)。さらに、次の世代である低成長期生まれ世代には、一人でも多くの人間が、現在の地方や農山漁村でうまく暮らせる方法がないか、暮らしの観点から具体的にその方法を探ってもらう必要がある。現在となっては暮らすのに色々と条件不利な面が出てきているふるさとで、なおも出生や子育てが実現できるかにまで踏み込んでもらうことになる(③)。

このうち、①が最も簡単である。これに対し、②、③になるほど難しくなっていく。これまでの過疎対策も、①ばかりをやってきたわけだ。むろんそれが無意味だというわけではない。しかし、①しかやっていなければ、早晩終わりが来る。高齢者にばかり目を向けた過疎対策は、明らかに片手落ちであるからだ。過疎問題は世代間の地域継承の問題である。それは一人一人の人生の問題であるとともに、人口構造の問題でもあり、それを生み出してきた経済や政治の問題でもある。そしてそれはおそらく、この国に支配的な思想や倫理、日本人が今後どういう生き方をするのか、何を大事に思い、何を尊重するのか、そういった価値の問題にもつながっている。

むろん昔にもどれというのではない。安定を新たに取り戻すことが実現すればよい。すでに我々の社会のシステムは、二〇〇〇年代以降も大きく変わってきた。この先も変わっていくだろう。我々は今後もきちんとした適応を行い、暮らしを続けていかねばならない。都市の課題ところで限界集落問題をめぐる解決課題は、右のように昭和期日本の主要な三つの世代の課題として整理できるだけでなく、それぞれ、三つの地域社会の課題としても提示することができるものだ。次のような地域別の課題整理を念頭に、再生への道筋について考えてみたい。まず一つは、人口の過疎高齢化が生じてしまっている集落自身に起点をおいて考え、解決していくべき課題がある。

国民意識の変化

民衆の人間としての生存の権利を確立するには、国内での「追い上げ」だけでは不十分です。とくに安保体制のもとで、日本が米国に軍事的に従属しているという条件がある以上、米国に対して、日本の民衆の権利を主張すること、つまり民衆の対等性と自立性を主張することが必要でした。それが、アイゼンハワー訪日阻止に示された要求であり、これは米国に対する「追い上げ」の運動だったのです。そこにはナショナリズムの要素がありましたが、それが日本回帰的あるいは国粋的な民族主義ではなく、民衆の人間としての権利である「平和」と「民主主義」という普遍的な価値の主張として現われたところに、戦後の日本の特質があります。それは「日本軍国主義」、つまり対外的な侵略や戦争と対内的な抑圧とを意味する日本の軍国主義を、民衆がまだ生々しく記憶していたからです。

戦後の日本外交では日米関係が最大の比重を占めているわけですが、「安保政策」に反対するこうした運動があったために、米国が対日政策を決める場合に、日本の政府と同時に日本の世論や野党や民衆運動をたえず考慮に入れざるをえないというパターンが存続していました。そういう運動や世論があるから、自民党政府でさえ、米国に対して、あるところで抵抗ないし抑制する行動をとらざるを得ないし、またとることが可能だったという状況があった。つまり、三つのアクターの間の政治力学から、戦後の日米関係や、またそれを軸とする日本の外交が構成されてきたといってよいのです。

七〇年代に入ると、こうした民衆運動が、一面では住民運動として地域社会に根づいていくとともに、他面で運動の分散が進んだため、外交や国際政治のアクターとしての存在をいちじるしく弱めることになりました。この背景には、もちろん六〇年代の高度成長と民衆意識の非政治化とがあり、日本社会が全体として「安保構造」にくり込まれたことがあります。こうして「安保政策」を批判する勢力や運動が弱まると、米国の対日圧力を抑制するアクターが弱まるわけですから、米国から圧力がかかれば、日本政府はとめどなく押しまくられ、流されてしまう。それが七、八〇年代の状況です。

また、このように、従来あった三つのアクターのうちの一つである民衆運動が比重を低下していぐことになりますと、結局、外交問題が政府間関係でほとんど決まるようになる。そうすると、外交というものが国民から離れて、国家間のレヴェルに収斂されてしまい、したがって国際政治が「パワー・ポリテックス」としてだけ映じやすくなる。ここに見られるのは、戦後の日本の大きな資産であった、国際問題を国民の問題として取り組んでいくというパターンが、大きく変容しはじめたという事実です。

七〇年代になって国際政治というものが「パワー・ポリティクス」というイメージで日本人にも受け取られる傾向が強まった一つの理由は、民衆運動という第三のアクターが国民の側で弱まったことに関連している。国際政治そのものは、いつも「パワー・ポリティクス」の側面をもってきたわけで、それにもかかわらず、あるいは、そうであるからこそ、平和主義をとるというのが戦後日本国民の選択だったはずです。ですから、一部の知識人が七〇年代になって「パワー・ポリティクス」だなどと騒ぎ立てたのは、自分の認識不足の告白に他ならないわけです。ともかく、国際政治の受け取り方が変わるというのは、われわれ国民の主体の側の変化の反映という面があるわけです。

欧米のエネルギー支配を崩す中露

日本は戦後、大国になったが、精神的な対米従属はむしろ戦前より強まり、思考の面で戦後の日本人は後退し、三島由紀夫が生前に嘆いていた知的分野の空白状態が起きた。戦後の日本は、残念ながら、アジアの文明を欧米に劣らない水準に高めることに、ほとんど貢献しなかった。今の中国は、まだ物欲のみで生きている感じだが、今後、発展傾向か安定してくると、思考の面での発展が起こりうる。中国は、かつて数々の偉大な思考を生み出した文明なので、その復活は哲学的な面でも期待できる。中国の思考面での勃興は、漢字圏にいる隣国の日本にも良い影響を与えるだろう。

2009年12月、ロシア極東のウラジオストク郊外に、新しい石油積出港としてコズミノ港が開所した。約5000キロ離れたシベリアの油田から送ってきた原油を、アジア太平洋地域に輸出するための港である。開所式には、開港を国家事業として推進してきたロシアの最高指導者プーチン首相も出席し、あいさつの中で「これは単なるパイプライン事業ではない。地政学的な大事業である」とぷちあげた。コズミノ港は、シベリアの油田地帯にあるタイシェトから、中国国境近くのスコボロジノを経てコズミノまで続く石油パイプラインと組み合わせて「東シベリア太平洋石油パイブライン」と呼ばれる。このルートを通ってアジア太平洋地域に供給され始めた原油の銘柄の名前にもなっている。

ESPOのパイプラインは09年10月、産出地のタイシェトから中間点のスコボロジノまで2700キロが完成し、残りの部分は14年までに完成予定となっている。それまで、未完成区間は鉄道で原油を輸送する。スコボロジノでは、中国向けのパイプラインが分岐し、中国のパイプライン網の出発点である黒龍江省の大慶までつなぐ工事が始まっている。石油パイプラインと並行し、ロシアの国営ガス会社ガスプロムが天然ガスのパイプラインを建設する予定もある。

プーチン首相がESPO事業を「単なるパイプライン事業ではなく地政学的な大事業」と呼んだのは、この輸送路の新設によって、ロシアの原油の新たな売り先として、中国をはじめとするアジア太平洋諸国が加わり、ロシアは原油の9割を欧州に売っていた従来の状態から脱せられるからだ。原油の輸出はロシア経済の大黒柱だが、その売り先がほとんど欧州だった従来は、欧州がロシアの原油を買ってくれなくなるとロシア経済がたちゆかないという弱みがあった。欧州はロシアの原油に頼っているが、ロシアも欧州の消費に頼っていた。

しかし今後、中国などアジア諸国に原油を売り出すと、ロシアは欧州に原油を売らなくても大して困らないようになる。従来、シベリア(西シベリア)の原油は欧州向けに輸出されていたが、シベリアの油田地帯から欧州国境まで約5000キロで、太平洋までの距離とだいたい同じだ。ロシアは、これまで西に送っていた原油を東に送ることで、たとえ欧州との関係が悪化してEUがロシア原油の不買活動をしても、大して困らなくなる。EUに対するロシアの政治的な力関係は、大きく優位になる。現在、ロシアは原油輸出の6%しかアジア太平洋諸国に売っていないが、30年にはこれを20-25%まで増やす構想を持っている。J・P・モルガンのアナリストは「ESPOの登場で、世界の原油市場は変わり出す」と予測した。

自衛隊というお守り

明治以来欧米を指向して国際社会の出世街道をかけのぼってきた日本人にとって、外見的であれ「西の一員」になったと考えることは、自己満足感を生みます。事実、七〇年代以降、国民意識のかなり広い範囲に現状肯定、保守化の傾向が現われた。これは多くの国民にとって、現状が既得権益という意味をもつようになったことを示しています。こうした意識が安保構造を支え、また七〇年代に顕著になった日本の軍事化を支えたわけですが、このような意識の変化のなかで、本来は軍事化と鋭く対立するはずの戦後の思想そのものが一種の既得権益と化し、軍事化を容認したり促進したりする機能を帯びるようになったことを看過してはならないと思います。ここでは次の三点をあげておきます。

第一は、近年の日本国民の間には憲法第九条をも一つの既得権益のように受けとる態度が見られるということです。「憲法も自衛隊も」というのが国民の多数の態度となったことは、多くの世論調査が示しているところです。これも一つの政治的選択であることは私も認めますが、しかし同時に、この二つの間にきびしい緊張がなければならないはずです。しかし実際には、二つの間の緊張が消えることによって両者が同時に受け入れられている場合が少なくない。いわば憲法というお守りと、自衛隊というお守りとを並べて身につけているに過ぎない。

しかし憲法がお守りに化した時、それは、たとえば徴兵からの安全といった、戦後の日本国民の既得権益の護符以上のものではなくなってしまうのです。換言すれば、なぜ戦後憲法が再軍備を抑制し、今日まで維持されてきたかといえば、それは憲法を護る民衆運動が強力に存在し、憲法を支えたからです。しかし近年の日本国民は、この運動の遺産を、新たな護憲運動もせず無為のまま食いつぶしながら、曲りなりに憲法を存続させているといった状況のように思われます。

しかし、憲法が既得権益の護符にとどまるかぎり、日本の保守化と軍事化を押しかえす緊張感はなく、既成事実に引きずられてゆく危険が大きいのです。第二に、日本の戦後世代は、さきにふれた米国とやや似ているのですが、時間がたつほど生活水準が上昇したという経験をもっている。つまり没落経験をもっていないため、単線的な歴史観の持主になりやすく、時とともにものごとは漸次よくなっていくというイメージが強い。したがって、歴史にはどこかでカタストロフー つまり破局や没落がありうるし、それには歴史的な理由と意味があるという実感が乏しい。

もともと戦後の経済発展は、二度と軍事化と破局への道を歩むまいという国民の決意に支えられていた面があり、戦後世代の生活の上昇経験は、こうした国民意識の所産でもあったのです。ところが、最近のように日本が一方で追い上げの過程をほぼ終わり、他方で追い上げられる側勝まわることになって、低成長が続く懸念が発生すると、未来への不安が強まり、現在持っている既得権益をなんとかして保持していきたい、そのためには軍事化も軍需生産もやむをえないという、保守的な姿勢が強くなりやすい。ここでもプラスの資産がマイナスに転化しやすくなっているのです。

ロシアの国策を立て直す

凍土の上の長距離パイプラインの建設費は巨額だ。建設費から輸送コストを算定すると、ESPOの送油は油田から積出港まで、1トンあたり130ドルかかるが、パイプラインの運営主体である国有企業のトランスネフチは55ドルしか徴収していない。この事業は年間10億ドルの赤字となる。しかしプーチンは柔道の猛者にふさわしく、この赤字問題を、敵の力を使って敵を倒す「背負い投げ」方式で政治的に解決している。ロシア政府は09年から、欧州向けの原油輸出にトンあたり約30ドルの輸出関税をかけ、この収入を使ってESPOの赤字を埋めている。西向きの原油は関税がかけられて割高になるが、東向きの原油はそれがないので、ロシアの石油業界にとっては、西向きで欧州へ輸出するより、東向きで中国などに輸出した方が良いことになり、シベリアの原油は自然に東向きに流れていくようになる。

ロシアが原油の輸出先として中国などアジア市場を得ることは、欧州(EU)だけでなく、ポーランド、ウクライナ、ベラルーシといった、ロシアから欧州へのパイプラインが経由する国々をも不利にする。これらの国々は従来、自国を通過する原油や天然ガスのパイプラインの利用を規制するとロシアを脅すことで、自国に対するロシアの影響力拡大の動きに対抗し得たが、今後はそうした脅しも効果が薄くなる。プーチンは、欧州(欧米)特に英米に対して、優位に立とうとしている。その理由は冷戦終結後、英米が、レーガンとゴルバチョフの間で冷戦終結時に約束した「欧米はロシアに対する敵視をやめ、国際社会の仲間として扱う(代わりにロシアは東欧を手放す)」という事項を守らなかったからだ。ロシアは、ワルシャワ条約機構を廃止したのに、欧米はNATOを解体せず、それどころかバルト3国やポーランドなど、ロシア近傍の国々をNATOに入れ、ウクライナやグルジアも加盟させようとするなど、NATOをロシア包囲網として強化した。

冷戦後のロシアは、欧米資本が自由に入ってこられるようになったが、その結果、欧米資本や英イスラエルの諜報機関と結託したオリガルヒと呼ばれる新興財閥(主にユダヤ人)がロシアを政治・経済の両面で牛耳り、国営企業の民営化政策を使って私腹を肥やし、エリツィン政権の中枢に入り込んでロシアの国策を骨抜きにした。エリツィンは、政権末期に自らの過ちに気づき、後継者に諜報機関出身のプーチンを立ててから辞めた。プーチンは、私物化された石油ガス産業などの国有企業を政府の手に戻し、オリガルヒを逮捕や亡命に追い込んで、荒っぽくロシアの国策を立て直した。サハリンなどでロシアの石油ガス田の開発利権を取得していた英米日企業も、環境問題などでいもやもんをつけられ、利権をロシアの国営企業に譲渡させられた。

ESPOの事業も、初めは最有カオリガルヒだったホドルコフスキーの石油会社ユコスが01年に立案した。だが、ホドルコフスキーが逮捕され、06年にユコスが消滅すると、ESPOはプーチン主導の国営事業になり、ロシアが中国の需要を使って欧米に対抗する構図に塗り変えられた。諜報戦略の一環として世界のマスコミ論調を握る英米は、プーチンを独裁者として描く傾向がいまだに強いが、ロシア人の大多数にとって、プーチンは祖国を英米の傀儡状態から救った英雄である。欧州では、ドイツがシュレーダー前首相の時代に、プーチンのロシアとの関係を強化した。米国の単独覇権主義に頼って反ロシアの姿勢をとりがちなポーランドやウクライナを迂回してロシアからドイツに天然ガスを直送する、バルト海の海底パイプライン計画(ノルドストリーム)も進められている(11年完成予定)。だがドイツは、05年にメルケル政権になった後、米英の覇権下から出ていく姿勢をとることに慎重になり、独露関係は良いものの、目立たないかたちになっている。

中国はESPOのパイプライン建設に出資している。代わりに中国は、ESPOの原油を20年間購入する権利を得た。中国の協力を得て、ロシアの石油ガスを中国に売るのがESPOの中心事業である。プーチンはESPOの事業を皮切りに、今まで開発が遅れていたロシアの極東から東シベリアにかけての地域に新たな産業基盤を作りたい考えだが、それにも中国の投資を誘致しようとしている。ESPOの石油開発は、日本や韓国、東南アジアやインドなども売り先として想定しており、インド企業もロシアの油田開発に参画している。シベリアの油田は、今まで欧州向けに生産してきた西シベリアの油田がそろそろ枯渇期に入り始めている。東シベリアの方は未開発で、その開発が予定通りに進むかどうか懸念がある。不安材料はあるものの、リスクのあるホルムズ海峡も了フッカ海峡も通らず、数日で東アジアに原油を供給できるロシア極東の積み出し港を持つシベリアの油田の意味は大きい。

中国敵視政策

当時も述べたのですが、私は日本側のこの混迷した対応は誤りだと思います。なぜ中国が安保非難をしなくなったかといえば、要するに一九七一年に米国の対中政策が変わり、それに遅れて日本の対中政策も変わり、それに対応して、中ソ対立もからんで中国の対米政策と対日政策も変わったということなのです。つまり私のいう「安保政策」の変化が重要なので、中国に敵対する「安保政策」が変われば、安保条約があっても、中国は気にする必要はない。その程度にまで安保条約が中国に対して少なくとも無害になったわけですが、それこそまさに、革新勢力が主張してきた「安保政策」の転換が行われた結果なのです。

もし米国や日本が一九七一年以前のような中国敵視政策を変えなかったなら、いくら中ソ対立があっても、中国が、日米安保があってもよいなどといえたはずはない。中国は前門と後門に敵をもつことになるわけですから。また日本にとっても、さなきだに複雑な国際緊張状況で、もし日中関係が依然として悪いという状態が重なったら、いったいどのような不安定な状況を生じていただろうか。日中対立の半面で中ソ対立がつづいているにしろ、中ソ接近が起こっているにしろ、日本がいちじるしく不安定な国際環境におかれただろうことを考えると、少なくとも日中関係は改善されたということは、一つの成果と評価すべきなのです。

とくに日本の場合、そうした選択が外交として賢明であるかどうかということだけではすまないのです。というのは、日本は中国に対する戦争責任について、平和友好条約によって一つのケジメをつけることなしには、中国を外交の対象として見ることができない状態だった。その意味で外交以前の関係だったのです。ですから、安保が中国に対して危険でなくなるという形で日中関係が改善されたことはヽ日本外交への大訃な拘束条件がなくなったことを意味したわけです。その結果、日本と中国は、いわばagree to disagree(互いに立場と見解の異なることを認めあう)という了解に立脚した友人の関係になったのであって、これは大きな進歩なのです。

要するに、われわれがなぜ日中関係を改善しようとしたのかといえば、それは過去の戦争への責任と、未来の平和への責任という視点に立つからであって、したがって中国側が対日評価をどう変えたかということと、われわれとしては軍拡や軍事化によって国際緊張を激化する行動をとらないということとは、区別して議論すべきことです。それを区別することが中国に対して敵対的な結果になるのなら好ましくないけれども、この場合そうではなかったのですから、中国側の言い方が変わったことなどは、私には、副次的なことでしかないと思われます。日本が「安保政策」を変えたため安保条約が中国にとり危険でなくなったことを、われわれとして喜べばよいのです。日中間の個々の変動に流されることなく、われわれとしては「安保政策」をとらないという原則を、腰をすえて自主的に堅持することが大切なのです。

もう一つは、朝鮮に対する日本の基本姿勢です。日本は三六年にわたる強権的な植民地支配を通じて、さまざまの権益を享受しました。ついで一九五〇年からの数年間、朝鮮の分断と戦乱から生じた「朝鮮特需」を享受しました。この特需が、戦後日本の経済復興の一つのバネになったことは否めません。その後一九六五年には、日韓条約によって、過去の植民地支配の噴罪という名目も立てて、有償・無償五億ドルを提供した。しかし、この「援助」は、そうしたキレイゴトとはほど遠いものだったことは周知の通りです。日韓条約締結によって成立した日韓関係とは、私の言葉でいえば、「安保政策」と「安保構造」とがセットになったものにほかなりません。

低次元の教師専門職論とは

労働組合はどこからみても、労働力という商品を所有し、販売するものの組織であって、資本主義のもとでは原則として賃金法則の関係性から出るものではないから、その意味では、あらゆる労働組合が、反動的だといっていえなくもたい。だが、そこにとどまる限り、労働組合はやがて、死滅した組織となる。反戦派教師はその意味で矛盾した存在ではあったが、その存在は、日教組を蘇生させる契機をはらんでいたということもできるだろう。蘇生は視点を変えれば死滅とも見えるわけである。しかし、そうした根本的な見あやまりは、見あやまる部分の弁証法への無知と退廃を示すだけのことである、と私は考える。

それはともかく、「四%の特別手当」を呑んだことは、日教組の思想的敗北として、長く人びとに語り伝えられなければならない。たぜたら、そのことの中には、次に来る人材確保法(くわしくは「学校教育の水準の維持向上のための義務教育諸学校の教育職員の人材確保に関する特別措置法」という)に、ほとんどノーズロといってもよい、無抵抗状態の根があったからである。無原則な経済闘争が、敵権力にとって社、もっとも円滑な支配を保障する、という転倒した好例であるだろう。教育界に優れた人材を確保するために、教員の給与を他の公務員より優遇して、毎年一〇%程度引きあげる、というのが人材確保法の骨子であった。教師にとってはまことに結構が話であり、まさしく、ヌレ手にアワとはこのことであろう。

「教師は専門職であるから、他の労働者とは一味ちがう、割増し賃金は当然」などと、低次元の教師専門職論に依拠しつつ、金稼ぎの劣情に負けてしまったのが、現実である。私はいま劣情という言葉を用いたが、まさしく、それは劣情以外の何物でもたかった。労働戦線における、日教組の特別の位置が確認されたばかりではなく、教育労働者内部にあっては、他の事務職員、学校用務員、非常勤講師とは別の教師の地位が、確認されたのである。「分断して支配せよ」という理念が、いつに変わらぬ権力の命題であることを、教師ほどの人物が理解せぬわけはないであろう。たぜ、こうも赤裸々な権力の意図に乗り切ることが教師たちに可能であるのか。私は、その知的退廃といわざるを得ない惨たんたる状況に暗然とし、それを劣情と呼ぶのである。

「我々は他の労働者とは違うのだ、学校内にあっても事務職員などとは違う教師なのだ」との異様な意識にこりかたまった教師集団をみることは、まことにつらいものである。教師自らか専門職を名乗ることは自由である。だが、私は教師たちが何をもって専門家を自認するかを自らつまびらかにできないうちは。教師たちを専門家などと、とうてい考えることはできない。この教師専門職論は実に根が深い。本務・雑務論もこのカテゴリーから解明されるだろう。すなわち教師の雑務を事務職員の本務に移行させる事態は、当然考えられる。「教師は子どもを教え、雑務は事務職員へ」という差別的意図のもとに成立しているのが、教師聖職論(または教師一面聖職論)の骨子でもある。カネに眼がくらんで認めてしまった人材確保法はここにおいて、教師専門職論や教師聖職論と、必然的に重なり合っていく。

いまとなっては、無いものねだりに等しいかも知れないが、教師はいま一度、おのれは何をもってメシを食っているのかをつきつめるべきである、と私は考える。誠実に考えをきわめることができれば、そこに、新たな教育労働者としての自立を展望できる地平に達し得るであろう。教師の仕事は左によりも、子どもの全面的発達を保障し、子どもを賢くしていくところに収斂するようなものでなければならない。子どもを賢くするには、日々の教育実践が勝負であり、教室での一時間一時間が大切であることはいうまでもない。さまざまな教授方式を編み出し、教育内容を精選し、あるいは、自主編成を実施するのは、まさにそのためである。

崩壊に向かいそうな英イスラエル

第二次大戦後、チャーチルの英国は、米国を巻き込むかたちで冷戦を開始し、国連常任理事国のうち英国にとって封じ込めておくべき国であるロシアや中国を米英共通の敵に仕立て、冷戦体制を40年以上続けることに成功した。英国が冷戦勃発に成功した理由は、第二次大戦後「失業状態」になりかけていた米国の軍産複合体(国防総省と軍需産業、議会やマスコミや学会の好戦派)を「英米同盟による共産主義との恒久戦争」に誘って乗せたからだ。米国がもともと好んでいた多極型の世界体制は影を潜め、英国好みのユーラシア包囲網の世界体制が維持された。

それ以来、米国の中枢では、冷戦型の米英中心覇権体制を維持しようとする「軍産英複合体」と、多極的な覇権体制に転換させようとする「多極主義者」との暗闘が、現在まで延々と続いている。ケネディ大統領は、ソ連と和解して冷戦を終わらせようとする矢先の1963年に暗殺された。ニクソン大統領は72年に「ソ連と戦うために中国と和解する」という口実を作って中国と和解したが、軍産複合体からウォーターゲート事件を起こされて失脚した。70年代から米政界でイスラエル系の勢力が強くなったが、これはニクソンら多極主義者の台頭に対抗するため、英国がイスラエルに米国の牛耳り方を伝授して入り込ませたのではないかと推測される。

81年に発足したレーガン政権は、軍産複合体やイスラエルの味方のふりをしつつ実際には、ソ連のゴルバチョフからの和解提案を受け入れるかたちで冷戦を終わらせてしまった。そして「新レーガン主義」を掲げた前ブッシュ政権も、テロ戦争やイラク戦争、単独覇権主義の標榜など、軍産複合体やイスラエルの忠実なしもべのように振る舞いながら、その裏で、あまりにひどい失策を繰り返してイラク戦争を「未必の故意」的に失敗させ、イスラム世界の反米感情を煽ってイスラエルを窮地に追い込み、金融バブルの膨張と破裂を看過して、英米が同じシステムを持っていた金融業界を崩壊させた。

ブッシュは、英イスラエルを巻き込みながら米国を自滅的に破綻させることで、世界体制を米英中心型から多極型に転換させることを隠れた意図としていたと私は推察している。私は、ニクソン、レーガン、ブッシュという3つの米共和党政権は、いずれも「隠れ多極主義」であると分析している。現オバマ政権も、表向きは政策の転換を掲げたが、実際には多くの点でブッシュ政権の政策を継承しており、隠れ多極主義の傾向がみてとれる。米中枢における軍産英イスラエル複合体と隠れ多極‐義勢力の暗闘は、延々と続いてきただけに、今は多極主義が優勢だが、このまま軍産側か消滅するとは考えにくく、いずれ何らかの反撃(第三次大戦を起こすなど)を行う可能性もある。だがもし有効な反撃が行われなかった場合、米国が英イスラエルを引き連れて破綻していく状態が今後何年か続き、その間にBRICSや主要途に11国といったゆるやかな非米同盟が国連などの国際社会で台頭して世界体制の多極化が進み、その後、米国は英イスラエルに邪魔されずに非米同盟との連携を強める展開になると予測される。

米国が非米同服に入るという、言語矛盾的な事態が起こりうる。「米中逆転」は、きたるべき「米中協調」の前段となる。米中が逆転から協調に向かいそうなのと対照的に、米英同盟と、米イスラエル同盟は、解体に向かう可能性が増している。英国は、すでに経済力と国際政治力を劇的に低下させており、米国から疎遠にされる、ユーロに加盟してEUに本格参加することでしか国力を維持できないだろう。EUへの本格加盟は、英国が米国の世界戦略の黒幕として機能することで世界を間接支配してきた戦略が終わり、英国がEUに「恒久幽閉」されることを意味している。イスラエルは、すでに周囲が敵ばかりなのに、対立を煽る戦争行為を続けており、今後、急転直下イスラム財界と和解する可能性はまだあるものの、滅亡もしくはユダヤ人国家としての終焉を迎える可能性の方が高い。世界は、米英イスラエル中心の体制から、米国がBRICSや途上国と協調する多極型の体制に転換しつつある。

都市は瓦疎の山となった

自分だけは大丈夫と言って赤信号も車が来なければ平気で渡る状況である。一般に災害というが、災害の意味をどのようにとるかによって、災害の範囲は広がってくる。日常の災害を含め、その災害を気にし始めれば暮らしていけなくなる。「自分だけは大丈夫」という楽天的な考えも必要である。今言った交通事故も然り。既に別の項で書いた住宅問題でも然り。そして、中国で災害が大きくなるのは、政府関係者が自己保身を先ず考えて、庶民に必要な事実を知らせていないということが一番大きいな原因である。共産党政府も政府にとって都合の悪い事実は知らせることを認めないという姿勢が災害を大きくしている。

知らされているのは、「政府のフィルターを通した、政府の考えが含まれた事実のみ」ということである。一方、知らせても、庶民には事前に防御をする手立てがないこともある。教養の度合いもある。また、手立てを施すにも、政府の指導によらず、自らが積極的に集団で意見を言ったり、活動をすることが難しい国であることも原因の一つである。集団で対処し、しかもそれが全国版になれば、反政府運動にされ、すぐさま鎮圧に乗り出されることを覚悟しなければならない。従って、日常生活が追い込まれない限り、中々運動体になり難い。事件や事故が公にならない限り政府は動き出さない。理由の一つは費用の問題もあるが、国の大きさと人口の多さが災いして全てに手が回りかねるということも政府に言わせれば理由にもなる。災害があっても、その土地の関係当局が自分の責任になることを恐れ、あらゆる手段を使って公にしない措置を取っていることも見逃せない事実である。

災害は避けられないにしろ、災害を大きくしているのは今まで既に書いてきた「政府にとって必要があるもの以外、人に知らせない」という政府の思想が問題である。即ち中国の災害は殆ど人災と言っても良いくらいである。北京や上海の繁華街や目抜き通りは別であるが、地方都市に行けば、車道と歩道の区別がつかない。日本的に言えば歩道を車が走るし、平気で歩道に駐車する。車が歩道を走ったり、駐車するので人が車道を歩く。信号があっても、人は平気で赤信号を渡るし、車は人をよけながら走る。道に大きな工事中の穴が開いていても周りには囲いすらない。人はそれを避けて通る。事故がない限り工事関係者も何の処置もしない。交通ルールや危険を避けるような処置をするルールは存在しているようだが、特に不具合がない限り、誰も気にしない。

庶民は何処に文句を言いに行ったらよいか分からないし、わかって提言しても、効果はない。上の指示がない限り役人も動こうとしないからである。マスコミに訴えても政府に対する行動は積極的に行動しない。行動してにらまれたら「損」であるからである。そして自分自身に直接影響を及ぼさない限り誰も行動を取らない。「上に政策があれば、下には対策がある」とたびたび書いているし、前著でも書いたが、この意味は罰則がなければ規定を守らなくても良い。また、見つからなければ良い。見つかったら運が悪い。見つかっても中国的な「関係」を持った人を探せば何とかなる。抜け道を考えれば良いということにつながっている。政府だけではなく庶民も中国では、五〇〇〇年の歴史があれば上は上で、下は下でこのような社会構造で五〇〇〇年これを続けているわけだ。

皆さんは「中国大地震」という二〇〇六年には未公開であった映画またはDVDを見たことがあるだろうか。この映画は一九七六年に発生した中国の唐山で起きたマグニチュード七・八の地震をテーマにしたものであるが、四川省の今回の大地震より若干軽いがそれでも都会で起きた地震である。この映画は、地震発生前に地震を予知した各動物の変化やその土地で発生した様々な奇怪な現象を、ある機関の所長が地震の前触れではないかとトップに提言するが、他の部署の担当責任者たちが所長の思い込みと片付け、更に慎重に調査をせよと調査ばかりを続け、結果的にその判断を遅らせた。市長も部下の意見が割れているので庶民を避難させることに対して決断がつかない。決断がつかないままに日々が過ぎて結局は地震が起きてしまう。最後には殆どの主人公が死んでしまう。中国では異例の物語と思う。公表でも二十四万人が死亡。都市は瓦疎の山となった。これは人災と言える。

官僚が隠す沖縄海兵隊グアム全移転

ニクソンは沖縄を日本に返還し、日本の自立をうながしたが、日本の官僚機構は逆に、これを米軍基地の存続のために使った。米軍基地の存在は日本人の反米感情を高めかねないので、日本の中でも本土(やまと)と異なる文化を持つ沖縄に、復帰直前のタイミングで米軍の戦闘要員に移転してもらい、基地を本土から遠ざけ、本土の日本人に対米従属を意識させないようにした。「基地は沖縄だけの問題だ」という固定観念が作られた。こうした既存の状況を壊しだのが、2009年の総選挙後、日本の政権が自民党から民主党に代わったことだった。民主党を主導する小沢一郎は、恩師だった田中角栄を殺した官僚支配に対する仇討ちとしての、官僚機構からの権力剥奪を試みている。個人的な恨みもあるだろうが、それよりも、官僚機構が田中角栄を殺して自民党を飼喝し、対米従属戦略を通じた官僚支配を確立した構造を解体し、日本を官僚主導から政治主導に戻そうとしているのだと考えられる。

官僚は選挙で選ばれていないが、政治家は選挙で選ばれるので、官僚支配を破壊して日本を政治主導に戻すことは、日本の民主主義を取り戻すことでもある。日本が対米従属をやめて、日米安保体制も事実上破棄すると、米国の威を借りて日本を支配していた官僚機構の権力が失われてしまう。だから、外務省などはプロパガンダ機能を全開し、マスコミは小沢・鳩山批判を展開し、政権転覆をはかった。これに対する鳩山政権の対抗策は「基地は要らない」とはっきり言い始めた沖縄県民の盛り上がりが本土に飛び火するのを待つことだ。だから鳩山は「普天問問題の解決には時間がかかる」と言いつつ、のらりくらりしている。これは、単なる私の推測ではない。東京の民主党本部から、沖縄県民に立ち上がってほしいと思っているというメッセージが沖縄の側に伝えられてきたという話を、私は09年秋に沖縄を取材したとき、運動体のリーダー役から聞いた。

普天間問題が解決しないまま時間がたつほど、この問題は「沖縄の問題」から「日本の問題」へと発展し、本土を巻き込んだ議論になる。マスコミも官僚の傀儡から脱しうる。マスコミは、時間稼ぎをする鳩山を非難しているが、これはマスコミが官僚傘下にあることを示す好例だ。本来は「良い機会だからじっくり在日米軍のことを議論しよう」という論調がマスコミに広がっても不思議ではないが、そんなことにならないのは、マスコミがプロパガンダマシンと化しているからだ。のらりくらりと揺れる鳩山政権は支持率が下がったが、自民党はひどく壊滅してしばらく復活しそうもないので、支持率がドがっても政権の再交代にはなりにくい。

鳩山政権の思惑どおり、普天間の移設問題の議論はまだまだ続く。いずれ鳩山が首相を辞めた後も続くだろう。そのうちに、日米関係そのものが再検討されていくことになりえる。米オバマ政権は隠れ多極主義なので、日本の自立とアジア協調策を歓迎している。日本が不平等な日米同盟を解消できれば、従来より対等な日米の協調関係が結べるだろう。少なくとも、縛りのある「同盟」の日米関係の時代は終わる。今後、ドルの崩壊感が強まりそうな中で、政治と経済の両面で、日本の国家戦略が問い直されることになる。2009年11月、沖縄県宜野湾市の伊波洋一市長が、在日米軍に関する常識を覆す非常に重要な指摘を放った。

沖縄の海兵隊は米国のグアム島に移転する計画を進めている。日本のマスコミや国会では「沖縄からグアムに移転するのは、海兵隊の司令部が中心であり、ヘリコプター部隊や地上戦闘部隊などの実戦部隊は沖縄に残る」という説明がなされてきた。しかし伊波市長ら宜野湾市役所の人々が調べたところ、司令部だけでなく、実戦部隊の大半や補給部隊など兵姑部門まで、沖縄海兵隊のほとんどすべてを14年までにグアム島に移転する計画を米軍がすでに実施していることがわかった。普天間基地を抱える宮野湾市役所は、以前から米軍に関する情報をよく収集し、分析力がある。

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