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日本人の絶対人数がそんなに増えていない

結果的には修理に修理を重ねてコストが高くなるということは分かっているのだが、上手くいくケースが多いのだろう。数年後にわかっても時既に遅しだ。彼もそれが心配なので事前に開発会社に念を押したが、相手は国家の検査証を見せて、「問題はない。問題があれば保証する」ということで購入したが、やはりダメだったと言っている。開発会社と国家の検査員は裏でつながっている。だから検査がいい加減なのだ。彼はそのように言う。このようにして完成する部屋なので、購入者が事前に部屋の内のりの図面を要求しても、その図面は出てこない。従って家具等を購入する際は、事前にその図面に基づいて購入するわけにも行かない。最も家具も立て横の寸法がずれている可能性が高い。大陸の人は小さなことは気にしないのか。それともまだ、持っているかいないかが重要な要素を占めているのか。

部屋の大きさに関することは前著で書いたが、何れにせよ中国の各人の部屋の内装は同じ部屋がない。コンクリートから自分で内装を行う。(最近は内装済のマンションも若干だが販売しているようだ)内装工事も、見ていないと材料を変えたり、必要量を使用しなかったりする。その意味では資金のある人ない人、時間のある人ない人、専門知識のある人ない人、経験のある人ない人で、それぞれの力量の範囲で行う「芸術品」である。長い間といっても十年近く放置されたビルのことを前著で書いた。そのビルは、コンクリートで各階の骨組みまで施工した状態で、その他はコンクリートむき出しのままであった。そのビルは、第一次ビルラッシュの際に建てかけ、途中で資金がショートして持ち主は逃げ出し手付かずのまま放置されていたのだった。

エベントがあるごとに見てくれが悪いからと、ビルの周りに塀を巡らし、その塀にペンキで広告、場合によっては政府の宣伝などを書いて、あたかも建設中のビルのように見せかけたりしていた。その後買い手がついたようだ。どうもその買い手はきな臭く政府と関係がありそうで二束三文でこのビルを手に入れたようだ。しばらく各骨組みなどはチェックしていたようだが、見ている限り基礎から見直しているようにも見えない。各鉄骨も錆び付いていると思うが、取り替えたり、補強したりしているようにも見えない。そのうちに、壁等を取り付け始め、いつの間にか外見は新しいビルのようになった。当初はオフィスビルの様相であったが、今は上の階は住宅兼用に出来ているようだ。十数階のビルであり、建築し終わっても、過去を知っている人は購入しないだろう。誰が購入するのかと興味深々で見ていた。

ところが、である。ビルの一階だけはきれいに内装を施し、購入者が購入しやすいように販売所をしつらえた。外から見ていると何人もの人が購入の打ち合わせに来ているのだ。中を見ると各部屋ごとに販売済みの赤丸が書かれている。早く購入しないと売り切れるよ、とよくある偽の販売のマークかと思っていたが、さにあらず、噂では完売と言う。誰が購入したのであろうか。投資目的にしろ、このビルの周辺の人ではないと思っていた。またまたところが、である。あるカラオケの経営者が二番目の店としてこのビルの二階を借りようとして私に相談があった。何の相談かと言うと、この場所を借りて日本人の客が来るか否かということである。近くに工場があるし、(将来引越しの可能性があるにしても当分はない)ホテルからも歩くには少し遠いし、タクシーに乗るにしては近い。

近くに外国人用のレストランが沢山あるわけではないし、態々来るには余程の他店とは異なる特徴を持たないと難しいと思ったので止めた方がいいのでは、と進言した。本人からもその他の場所についてもいくつか質問があったが、どれも手放しで賛成できない場所である。本人が言うには、黙っていても他店が第一店舗を出したり、他の地域からの進出があったり、店の子が止めて新しく店を開いたりされるのを黙って見ているより先に店舗を出した方が良いというのが本人の弁であった。日本人の絶対人数がそんなに増えていない中で、また、この地域は工場地帯であり、外国人用の娯楽施設がそんなに多くても客足が分散するだけで収入は少ないと助言したが、本人は既に腹積もりを決めていたらしく、最終的にその幽霊ビルに決めた。

世界でもっとも厳しい競争の場

北京市内で中国を代表する経済学者たちと議論したとき、次のような興味深い発言があった。「海外から安い労働力を求めてやってくる投資を無節操に引き受けて輸出で成長を続ける初期段階の成長は終わった。これからは国内インフラをもっと整備し、内需が成長を引っ張っていくような次の段階の成長に入る必要がある」というものだ。この発言は「リーマンーショツク」の前のものだが、金融危機を受けた中国の対応に見事に合致している。50兆円近い規模の景気対策で内需を刺激し、内陸部を中心とした貧しい地域のテコ入れをしようというのだ。鉄道、道路、発電所、鉄鋼や石油化学の工場、住宅整備など大きな投資が予定されている。

世界的金融危機により中国の輸出は急速に落ち込んだが、輸出に過度に依存した経済では成長を持続することは難しい。中国が今後さらに持続的発展を遂げるためには、国内型にシフトしていき、自らの消費の拡大を成長につなげていくことが必要となるのだ。世界全体から見ても、米国の輸入だけに依存する状態をいつまでも続けるわけにはいかない。中国が世界の輸入を牽引するもう一つの核になることが期待される。中国市場での日本の自動車メーカーの動きについてショッキングなニュースを聞いた。中国市場で日系メーカーは販売台数を大きく伸ばしている。それにもかかわらず中国市場における日系企業のシェアはむしろ下がったというのだ。市場の拡大のスピードが速すぎて、日本メーカーがそれに追いついていけない状況のようだ。

2010年初め、中国では新車販売台数は1500万台近くになると予想されていた。10年前には約200万台であった。10年間で7・5倍に膨れ上がった計算になる。年率で20%を超える成長のスピードだ。かつていかなる国も経験したことのないような市場拡大のスピードである。競争優位に立つためには、企業にもそれなりの覚悟が必要である。スピード感が求められるのだ。中国市場の拡大は日本にとって大きなチャンスであるという議論をよく聞く。確かに日本の市場が人口減少と少子高齢化によって急速に縮小していくことを考えれば、中国をはじめとする新興国の経済成長に期待せざるをえない。

しかし、中国市場にチャンスを見出しているのは日本企業だけではない。欧米の企業をはじめとして、韓国や地元中国の企業もこの成長市場の中でシェアを拡大していくことに必死なのだ。中国市場が世界に向けて本格的に開放されるようになったのは、中国が2001年にWTO(世界貿易機関)に加盟してからである。もう10年になる。その間、同国は重要な市場になると世界から注目されてきた。大きな市場であればこそ甘くないのだ。中国市場は、今や世界でもっとも厳しい競争の場になろうとしている。中国市場でシェアをとれない企業はグローバル市場でもシェアをとることが難しくなっている。

日本の携帯電話がその典型的な例だ。日本の国内市場という限られた市場の中でなんとか生き残ってきたが、そこにも海外のメーカーの参入が始まっている。日本の市場の中だけで競争していては将来展望を描くことが難しい。中国のような成長市場でいかにシェアを確保するのかということが、グローバル時代の競争に生き残る鍵となるはずだ。携帯電話で経験したこと、そして自動車でも懸念される動き、これらは新興市場での対応のスピードの重要性を再確認することを求めているのだ。

北朝鮮の核実験

先にある北朝鮮と韓国との非武装地帯は、世界最大の地雷原と化し、難民の這い出る隙もない。北朝鮮が崩壊すれば大量の難民が中朝国境に押し寄せ、経済成長を続ける中国は大混乱に陥る。そこまでは予想がつく。だが、救助しきれず崩壊し、朝鮮半島に統一国家が生まれた場合、それが中国にとってどんな意味を持つ砂か、そう簡単には答えが出せない。市場経済が浸透しているとはいえ、中国が共産党の一党独裁を続ける社会主義国家であることに変わりはなべ、今の段階で、韓国と国境を接する用意ができているとは思えない。中朝国境は中国の首都、北京からも遠くない。北朝鮮が中国に友好的で、韓国との統一を阻む勢力である限り、中国にとって現状維持が最善の策であるに決まっている。

しかし、その中国が北朝鮮を負担に感じ出している。国際秩序を無視し続ける北朝鮮への支援や、脱北者に対する非人道的な扱いが、中国の国際的信頼度を損ねる事態になってきたからだ。最大のパトロン、中国の出方一つで、北朝鮮情勢がガラリと変わる可能性が生まれてきたわけだ。だが、肝心の中国の姿勢は、いつまでたってもはっきりしない。その優柔不断な態度は、二〇〇六年一〇月九日に北朝鮮が核実験を強行したとき、より鮮明になった。中国の劉建超外務省スポークスマンは、北朝鮮の核実験を「悍然」(身勝手な)という強い語調で非難し、関係者を驚かせた。中国が公式の場で悍然という言葉を使うのは、米軍が駐ユーゴスラビア中国大使館を誤爆して以来、コー年ぶりのことだったからだ。中国は国連安全保障理事会の制裁決議にも賛成票を投じ、「唇歯の絆」で結ばれた同盟国、北朝鮮に、かつてない断固たる姿勢を示した。

ところが、劉スポークスマンば一〇月二四日の記者会見で、「北朝鮮に対する援助を削減する計画はない」と語り、舌の根も乾かぬうちに前言を翻してしまった。その後、中国は再び米朝の橋渡し役に徹し、マカオの銀行バンコデルタアジアの北朝鮮口座が凍結されて以来、一年以上中断していた六力国協議を、○七年二月に成功裏に再開させた。中国の不可解な行動には、どんな思惑が隠されているのか。北朝鮮崩壊が秒読み段階に入ったとされる今、中国の役割を中心に、朝鮮半島をめぐる複雑怪奇な情勢を解明する必要がありそうだ。まずは、中国の意図を理解するために、時計の針を、七・一経済措置と新義州特区構想が矢継ぎ早に発表された○二年に戻し、その後の中朝関係を時系列で探ってみたい。

一九九二年に中国と韓国が国交を結んで以来、冷え込んでいた中朝関係に転機が訪れるのは、二〇〇二年一〇月に核開発疑惑が再燃してからだ。北朝鮮が核不拡散条約(NPT)からの脱退を宣言した翌月の○三年三月、中国では胡錦濤か国家主席兼中国共産党総書記に就任。核問題を解決するために六力国協議を主催し、朝鮮半島の新たな枠組み作りに奔走することになる。翌○四年四月に金正日総書記の北京訪問が実現。そして、同年九月の中国共産党第一六期中央委員会第四次全体会議(一六期四中全会)で、胡錦濤主席が中央軍事委員会主席にも就任したことで、党・国・軍の三権を掌握した胡錦濤体制が本格的にスタートした。このころから、核問題をテコにした、金正日総書記と胡錦濤主席の奇妙な二人三脚が始まった。

一方、体制変換をも視野に入れたブッシュ政権の圧力が増す中で、北朝鮮は○五年二月に核保有を宣言するなど、緊張をエスカレートさせた。だが、中国は同年九月の六力国協議で「九・一九共同声明」の発表にこぎつけるなど、核問題の解決に着々と成果をあげていた。その直後にバンコーデルターアジア問題が発生し、米朝関係は再び暗転。それとは反比例するかのように、中朝両国はかつてない蜜月時代を迎えていた。この時期、中国高官の訪朝が相次いだ。九・一九共同声明直後の○五年一〇月八日、呉儀副総理が中国共産党代表団を率いて平壌入りし、「北朝鮮の資源とインフラ開発に中国政府が参加する意志がある」と表明。経済担当の総責任者である彼女の根回しが功を奏し、二週間後には胡錦濤主席の訪朝が実現した。

ドバイが発展した理由

アメリカは1年以内にこの問題を解決するとしているが、日本で1990年代初頭に起きたバブル経済崩壊後の不良債権処理の後遺症も約10年続いた。アメリカ版住宅バブルの崩壊はもっと根深く、今後どのように世界経済に波及していくのか、ますます不安を掻き立てられるのが正直なところである。日本進出から3年、ウォールマートの戦略は成功したのか。ウォールマートといえば世界最大の売上局を誇るアメリカのスーパーマーケットチェーンとして有名だ。1962年に創業してからは、小売チェーン店の進出に力を入れたアメリカ経済界の後押しもあって、いまや小売業世界一の企業に成長している。

2007年度の売上が3000万ドルを越えるまさにメガ・マーケットだが、そのウォールマートが日本市場への進出を始めたのは、2005年の5月のことだった。ウォールマートは当時、西武セゾングループだった西友チェーンとの問に資本・業務提携を結び、西友の株式を50・9パーセント保有し、事実上、傘下に入れて経営再建を図ろうとした。これに対して西友側もウォールマートのネームバリューや経営力が西友自体の企業価値を高めるとして、当初はこの提携を積極的に受け入れたのだ。

さらに2年後の2007年12月にもウォールマートは西友に対する株式公開買付(TOB)を成功させて、完全に子会社化させたが、この提携が成功したかどうかについてはいまのところ判断できない状況にある。西友側は人件費削減のため、従業員1600人の早期退職の募集や管理職約450人の退職募集など、事実上のリストラ政策を断行してきたが、西友の経営状態が回復したとはいえない状態が続いているのが現状で、2007年の決算も赤字となっている。ウォールマートは本国のアメリカでは、商品を大量に仕入れ、大量に陳列販売することを得意としており、「毎日が大安売り状態」という経営戦略で有名だが、日本でこのような経営をするには無理も生じる。

アメリカで大成功したウォールマート流の大皇消費型経営方式が日本という土壌に定着するまでは、もう少し時間がかかるのかもしれない。いまや世界から資本が集まるドバイの実情とは?アラブ首長国連邦(UAE)の主要都市のひとつであるドバイが、いま、急激な変貌を遂げ世界中の資本家から注目されている。かつては英国の東インド会社の中継港として栄えたドバイだが、いまでは、高層ビルや高級ホテルが建ち並び、「中東のシンガポール」とも呼ばれるくらいの急成長を遂げている。ドバイ国際空港には日本からも関西国際空港と中部国際空港から一日、各1便ずつ就航があり、ビジネスだけでなく観光を目的とする旅行客の数も増えている。

このドバイが発展した理由は、経済的なフリーゾーンとなっている点にある。ドバイでは外資系企業が進出しても、50年間は法人税を払わなくてもよい、という超破格な優遇制度があるのだ。100パーセント外国資本で会社を設立するのも自由で、現地の人材を雇用するのも自由だという。このことから世界中の企業がドバイに会社を設立、最近では映画製作まで頻繁に行われているといわれている。また、超高級リゾート地としても売り出し中であり、このようなことから国内外の投資家からも注目されている。株式投資の対象としてはとくに金融と不動産がターゲットとされている。そのような状況からか、2005年には主に金融関係の株価が高騰し過ぎて問題になったこともあるのだ。

「安保再定義」の浮上

翌年の「国防報告」で、新方針にもとづく地域紛争への「選択的介入原則」が打ち出された。たとえば、スーダンには介入せず、旧ユーゴの内戦には空軍戦力の行使にとどめ、イラクに対しては容赦ない攻撃を行うといった、今日につづく、つまみ食い介入方式である(E・ドットはこの軍事介入を「演劇的小規模軍事行動」と評している)。一方、日本に対してクリントン政権は、「国防白書」で、「太平洋向けの戦力は、東アジアにおけるアメリカのコミットメントを維持するもので、前方基地と前方展開の部隊及び空・海・地上部隊の増援能力から構成される。この戦力は、海洋戦力日本と韓国の前方基地戦力の維持、そしてハワイ、アラスカ、米本土からの増援部隊が引き続き重要な要素となろう」と位置づけ、ソ連なきあとも重要な役割が与えられるシグナルが示された。

そこで第三に、ワシントン発の意向を受けた日米安保協力の見直し=安保再定義へ向けた動きが浮上してくる。「国防報告」は「アジア・太平洋地域に一〇万人規模の米軍を維持する」と言明していた。そのためには、日米安保の運用方針を「単一の脅威=対ソ抑止」から「多岐にわたる脅威=地域紛争」にそなえる出撃型基地戦力に転換させ、自衛隊を、より能動的なパートナーに組み込む必要があった。ソ連との軍拡競争で疲弊した経済状況も、同盟国の軍隊と経済力により大きな支援を求める要因となった。アメリカ側から日米安保に「領域外周辺事態への共同対処」という海外任務が提起される。専守防衛、海外派兵禁止、集団的自衛権否定など、自衛隊のよって立つ土台に決定的な修正要求が、ワシントンの論理によってなされるのである。憲法と安保の相剋がさらに進行する。

冷戦終結がもたらした、ポスト冷戦の安保協力は、それまで考えられなかった海外任務や米軍作戦への支援行動を、現実的な活動形態として自衛隊に要求した。その結果、一九八〇年代までは問題になりえなかった「アメリカの戦争」への直接的な協力、すなわち「海を渡る自衛隊」が、具体的でリアルな自衛隊の新任務としてもちこまれることになる。自衛隊の活動を領域外にまで認めるか、任務に「日本周辺における事態対処」や「国際テロリズムに対する国際共同行動」を加えるか。こうした問題が、「日米新ガイドライン(防衛協力の指針)」によって浮上してくる。そしてそれ以後「周辺事態法」「武力攻撃事態法」「テロ特措法」「イラク特措法」に結実していく自衛隊の任務拡大、結論的にいえば、米軍の手足路線これらがクリントン政権のエングージメント政策に発し、九〇年代の「安保再定義」のなかから実像をあらわすのである。

第四に、こうした国際情勢の激変に直撃されながら、九〇年代は、国内政治にあっても「自民党単独政権の終焉」という画期が記された時代として記憶される。「湾岸危機」から「湾岸戦争」にかけて政権をになった海部俊樹内閣、カンボジア復興支援のための「PKO協力法」を成立させた宮沢喜一内閣、自民党単独政権がっづいたのはここまでだった。九三年八月、宮沢内閣総辞職ののち、非自民八派からなる細川連立政権が発足したことにより、保守合同以来三八年に及んだ長期政権の時代に幕を降ろした。それからの安保政策は、短い期間に終わった非自民政権、細川・羽田・村山政権時代のあと、ふたたび主導権を取りもどした自民主軸の連立政権・橋本・小渕・森・小泉・安倍政権の下で形づくられることになる。

八人の首相と一七人の防衛庁長官というめまぐるしい内閣交代と、自民党・社会党の二極構造に代わる多党化・連立政権がつくりだす離合集散、一方で北朝鮮の脅威を標的にした排外主義的ポピュリスム政治の台頭。このように錯綜した政治状況下、自衛隊は、日米の函数関係(独立と従属)のタテ軸と、高まる保守化・右翼的ナショナリズム(改憲潮流)のヨコ軸の座標に規定され、国会論戦の不毛とメディアの無気力のなかで、ふつうの軍隊、戦争できる組織へと変身していくのである。

派遣可能期間をめぐる問題

ところで、この派遣先の「直接みなし雇用」に関しては、前者の派遣可能期間の制限「第40条の2第1項」を超えて派遣を受けたか否かについては、派遣元としては適法な派遣を行つており違反はしていないと争うことが予想されます。すなわち、改正法において、違法派遣による派遣先の゛直接みなし雇用」制度をめぐる紛争の多発が予想されるものの1つに、いわゆる専門26業務における現在の取扱い上の「付随的業務10%」以内の問題があります。政令で定める専門26業務(今回の改正法で政令第4条と第5条とになり条番号が変更されています。)については、派遣可能期間の制限はなく、その場合においては違法派遣の問題は起こらないのですが、現在の派遣先の派遣労働者への対応をみていると、例えばOA機器操作に派遣されている者に対しても直接関係のない電話の授受や、来客の応対業務を行わせたり、時には多忙な部署の一般事務労働を手伝わせるといった派遣業務の逸脱使用がみられるといった指摘がなされ、「派遣適正化プラン」という形で問題となりました。

この点について「業務取扱要領」の定めにより、付随的業務が「1日あたり又は1週間あたりの就業時間の10%を超える」と専門26業務とはみなされなくなり、派遣可能期間の制限に服することになるとして行政指導が強力に行われます。このような10%を超える逸脱使用(無関係のその他業務への使用では、1回でも、との極端な行政指導もある)が行われた時点が当該専門26業務の派遣開始時から3年間を超えているときは、「その時点」をもって違法派遣となるという問題が発生します。その場合に今回の改正法では、「派遣先の直接雇用の労働契約の申込みが行われた」とみなされ、当該派遣労働者が「承諾」するとその時点で派遣先との直接雇用契約が成立することとなってしまいます。現在の派遣先企業における、派遣についての無理解な監督者の多い状況からみると、改正法の施行により、かかる紛争の多発が予想され、今後問題が続発するのではと思われます。

もう一つの派遣可能期間をめぐる問題は、この派遣可能期間の制限というのが、「当該派遣先の事業所その他派遣就業の場所ごとの同一の業務について、派遣元事業主から派遣可能期間を超える期間継続して労働者派遣の役務の提供を受けてはならない。」(第40条の2第1項本文)とされていることです。1年ないし3年の派遣期間の制限というのは、当該派遣労働者個人に着目した期間ではなく、「派遣就業の場所ごとの同一業務」についての制限ですから、例えば前任の派遣労働者が退職して後任の派遣労働者がわずか数力月就労しただけで、その場所の同一業務の派遣期間が3年に達する場合も該当します。その後任の派遣労働者がその後の派遣就業を継続すると「派遣可能期間の制限」に違反することになりますから、派遣先は「その時点」で当該労働者に対して直接採用の「労働契約の申込み」をしたものとみなされることになります。

同法第40条の5に定める派遣先の労働契約の申込み義務が、「当該派遣先の事業所その他派遣就業の場所ごとの同一の業務について、派遣元事業主から3年を超える期間継続して同一の派遣労働者に係る労働者派遣の役務の提供を受けている場合において」(傍点筆者)と規定されヽ同じ労働者が3年の継続派遣とされているのと比べヽ改正法は強力な「雇用のみなし」となるにもかかわらず、このような同一労働者が要件とされていない点が問題です。また、後者の偽装請負問題に関しても、何か偽装請負となるかについて明確な具体的基準はなく、いわゆる「告示第37号」の適用についても現実にトラブルが多発しています。偽装請負とは何かについて、次のような判例があります。「請負契約においては、請負人は注文者に対して仕事の完成義務を負うが、請負人に雇用されている労働者に対する具体的な作業の指揮命令は専ら請負人にゆだねられている。

限界集落をめぐる世代と地域

以上をまとめるなら、家族の視点から見る限界集落問題とは、まず次のような問題だということが分かってくる。すなわち、日本社会の明治以降の近代化の過程の中で、とくに戦前から戦後にかけての昭和の大変動期を、日本の多くのむらは家族の変化・家族の広域拡大化によって乗り切ろうとした。限界集落問題とは、その結果として生じてきている問題である。昭和の歴史は経済発展と恐慌、そして戦争から敗戦を経て、戦後の高度経済成長へとつながっていった。その最後にはバブル経済を引き起こしたが、次の平成期はそのバブル経済の崩壊を経て、二〇〇〇年代の行財政改革期まで、暗い時代に突入していくこととなる。それでもこの間、昭和期を通じて構成された新しい家族の体制は、この新しい社会にもうまく適応し続けてきた。

問題は二〇一〇年代にある。昭和から平成にかけてつくり上げられてきた体制が、戦前世代の退出という形でいま大きな転換局面を迎えている。広域に広がる家族は、次の段階に入るべきことを余儀なくされているが、その際の人々の対応のあり方次第で、一部の地域の自然消滅のような最悪の事態が生じる可能性があるかもしれない。これが、限界集落論の提起した真の問題なのであった。他方で、むらの家族を調べていけば、多くの場合、最悪のことが起きないような準備が着実になされてきたことも分かる。問題は、その準備を確実なものにしていけるかどうかである。家族の視点から見た限界集落論は、ここからさらに、親・子・孫の関係にも置き換わりうる、昭和を代表する三つの世代ごとに、限界集落問題を軟着陸させるための課題を提起できる。

まず第一には、いま集落に残っている人に、いかに長く生活を続けてもらえるか。これはとくに昭和一桁生まれ世代の課題となる(①)。それに対し、すでに仕事場からの引退が始まっている戦後直後生まれ世代に関しては、その中に含まれる、ふるさとに戻る人の帰還をいかに実現するか。そのタイミングをいかにそろえていくかが課題となる(②)。さらに、次の世代である低成長期生まれ世代には、一人でも多くの人間が、現在の地方や農山漁村でうまく暮らせる方法がないか、暮らしの観点から具体的にその方法を探ってもらう必要がある。現在となっては暮らすのに色々と条件不利な面が出てきているふるさとで、なおも出生や子育てが実現できるかにまで踏み込んでもらうことになる(③)。

このうち、①が最も簡単である。これに対し、②、③になるほど難しくなっていく。これまでの過疎対策も、①ばかりをやってきたわけだ。むろんそれが無意味だというわけではない。しかし、①しかやっていなければ、早晩終わりが来る。高齢者にばかり目を向けた過疎対策は、明らかに片手落ちであるからだ。過疎問題は世代間の地域継承の問題である。それは一人一人の人生の問題であるとともに、人口構造の問題でもあり、それを生み出してきた経済や政治の問題でもある。そしてそれはおそらく、この国に支配的な思想や倫理、日本人が今後どういう生き方をするのか、何を大事に思い、何を尊重するのか、そういった価値の問題にもつながっている。

むろん昔にもどれというのではない。安定を新たに取り戻すことが実現すればよい。すでに我々の社会のシステムは、二〇〇〇年代以降も大きく変わってきた。この先も変わっていくだろう。我々は今後もきちんとした適応を行い、暮らしを続けていかねばならない。都市の課題ところで限界集落問題をめぐる解決課題は、右のように昭和期日本の主要な三つの世代の課題として整理できるだけでなく、それぞれ、三つの地域社会の課題としても提示することができるものだ。次のような地域別の課題整理を念頭に、再生への道筋について考えてみたい。まず一つは、人口の過疎高齢化が生じてしまっている集落自身に起点をおいて考え、解決していくべき課題がある。

国民意識の変化

民衆の人間としての生存の権利を確立するには、国内での「追い上げ」だけでは不十分です。とくに安保体制のもとで、日本が米国に軍事的に従属しているという条件がある以上、米国に対して、日本の民衆の権利を主張すること、つまり民衆の対等性と自立性を主張することが必要でした。それが、アイゼンハワー訪日阻止に示された要求であり、これは米国に対する「追い上げ」の運動だったのです。そこにはナショナリズムの要素がありましたが、それが日本回帰的あるいは国粋的な民族主義ではなく、民衆の人間としての権利である「平和」と「民主主義」という普遍的な価値の主張として現われたところに、戦後の日本の特質があります。それは「日本軍国主義」、つまり対外的な侵略や戦争と対内的な抑圧とを意味する日本の軍国主義を、民衆がまだ生々しく記憶していたからです。

戦後の日本外交では日米関係が最大の比重を占めているわけですが、「安保政策」に反対するこうした運動があったために、米国が対日政策を決める場合に、日本の政府と同時に日本の世論や野党や民衆運動をたえず考慮に入れざるをえないというパターンが存続していました。そういう運動や世論があるから、自民党政府でさえ、米国に対して、あるところで抵抗ないし抑制する行動をとらざるを得ないし、またとることが可能だったという状況があった。つまり、三つのアクターの間の政治力学から、戦後の日米関係や、またそれを軸とする日本の外交が構成されてきたといってよいのです。

七〇年代に入ると、こうした民衆運動が、一面では住民運動として地域社会に根づいていくとともに、他面で運動の分散が進んだため、外交や国際政治のアクターとしての存在をいちじるしく弱めることになりました。この背景には、もちろん六〇年代の高度成長と民衆意識の非政治化とがあり、日本社会が全体として「安保構造」にくり込まれたことがあります。こうして「安保政策」を批判する勢力や運動が弱まると、米国の対日圧力を抑制するアクターが弱まるわけですから、米国から圧力がかかれば、日本政府はとめどなく押しまくられ、流されてしまう。それが七、八〇年代の状況です。

また、このように、従来あった三つのアクターのうちの一つである民衆運動が比重を低下していぐことになりますと、結局、外交問題が政府間関係でほとんど決まるようになる。そうすると、外交というものが国民から離れて、国家間のレヴェルに収斂されてしまい、したがって国際政治が「パワー・ポリテックス」としてだけ映じやすくなる。ここに見られるのは、戦後の日本の大きな資産であった、国際問題を国民の問題として取り組んでいくというパターンが、大きく変容しはじめたという事実です。

七〇年代になって国際政治というものが「パワー・ポリティクス」というイメージで日本人にも受け取られる傾向が強まった一つの理由は、民衆運動という第三のアクターが国民の側で弱まったことに関連している。国際政治そのものは、いつも「パワー・ポリティクス」の側面をもってきたわけで、それにもかかわらず、あるいは、そうであるからこそ、平和主義をとるというのが戦後日本国民の選択だったはずです。ですから、一部の知識人が七〇年代になって「パワー・ポリティクス」だなどと騒ぎ立てたのは、自分の認識不足の告白に他ならないわけです。ともかく、国際政治の受け取り方が変わるというのは、われわれ国民の主体の側の変化の反映という面があるわけです。

欧米のエネルギー支配を崩す中露

日本は戦後、大国になったが、精神的な対米従属はむしろ戦前より強まり、思考の面で戦後の日本人は後退し、三島由紀夫が生前に嘆いていた知的分野の空白状態が起きた。戦後の日本は、残念ながら、アジアの文明を欧米に劣らない水準に高めることに、ほとんど貢献しなかった。今の中国は、まだ物欲のみで生きている感じだが、今後、発展傾向か安定してくると、思考の面での発展が起こりうる。中国は、かつて数々の偉大な思考を生み出した文明なので、その復活は哲学的な面でも期待できる。中国の思考面での勃興は、漢字圏にいる隣国の日本にも良い影響を与えるだろう。

2009年12月、ロシア極東のウラジオストク郊外に、新しい石油積出港としてコズミノ港が開所した。約5000キロ離れたシベリアの油田から送ってきた原油を、アジア太平洋地域に輸出するための港である。開所式には、開港を国家事業として推進してきたロシアの最高指導者プーチン首相も出席し、あいさつの中で「これは単なるパイプライン事業ではない。地政学的な大事業である」とぷちあげた。コズミノ港は、シベリアの油田地帯にあるタイシェトから、中国国境近くのスコボロジノを経てコズミノまで続く石油パイプラインと組み合わせて「東シベリア太平洋石油パイブライン」と呼ばれる。このルートを通ってアジア太平洋地域に供給され始めた原油の銘柄の名前にもなっている。

ESPOのパイプラインは09年10月、産出地のタイシェトから中間点のスコボロジノまで2700キロが完成し、残りの部分は14年までに完成予定となっている。それまで、未完成区間は鉄道で原油を輸送する。スコボロジノでは、中国向けのパイプラインが分岐し、中国のパイプライン網の出発点である黒龍江省の大慶までつなぐ工事が始まっている。石油パイプラインと並行し、ロシアの国営ガス会社ガスプロムが天然ガスのパイプラインを建設する予定もある。

プーチン首相がESPO事業を「単なるパイプライン事業ではなく地政学的な大事業」と呼んだのは、この輸送路の新設によって、ロシアの原油の新たな売り先として、中国をはじめとするアジア太平洋諸国が加わり、ロシアは原油の9割を欧州に売っていた従来の状態から脱せられるからだ。原油の輸出はロシア経済の大黒柱だが、その売り先がほとんど欧州だった従来は、欧州がロシアの原油を買ってくれなくなるとロシア経済がたちゆかないという弱みがあった。欧州はロシアの原油に頼っているが、ロシアも欧州の消費に頼っていた。

しかし今後、中国などアジア諸国に原油を売り出すと、ロシアは欧州に原油を売らなくても大して困らないようになる。従来、シベリア(西シベリア)の原油は欧州向けに輸出されていたが、シベリアの油田地帯から欧州国境まで約5000キロで、太平洋までの距離とだいたい同じだ。ロシアは、これまで西に送っていた原油を東に送ることで、たとえ欧州との関係が悪化してEUがロシア原油の不買活動をしても、大して困らなくなる。EUに対するロシアの政治的な力関係は、大きく優位になる。現在、ロシアは原油輸出の6%しかアジア太平洋諸国に売っていないが、30年にはこれを20-25%まで増やす構想を持っている。J・P・モルガンのアナリストは「ESPOの登場で、世界の原油市場は変わり出す」と予測した。

自衛隊というお守り

明治以来欧米を指向して国際社会の出世街道をかけのぼってきた日本人にとって、外見的であれ「西の一員」になったと考えることは、自己満足感を生みます。事実、七〇年代以降、国民意識のかなり広い範囲に現状肯定、保守化の傾向が現われた。これは多くの国民にとって、現状が既得権益という意味をもつようになったことを示しています。こうした意識が安保構造を支え、また七〇年代に顕著になった日本の軍事化を支えたわけですが、このような意識の変化のなかで、本来は軍事化と鋭く対立するはずの戦後の思想そのものが一種の既得権益と化し、軍事化を容認したり促進したりする機能を帯びるようになったことを看過してはならないと思います。ここでは次の三点をあげておきます。

第一は、近年の日本国民の間には憲法第九条をも一つの既得権益のように受けとる態度が見られるということです。「憲法も自衛隊も」というのが国民の多数の態度となったことは、多くの世論調査が示しているところです。これも一つの政治的選択であることは私も認めますが、しかし同時に、この二つの間にきびしい緊張がなければならないはずです。しかし実際には、二つの間の緊張が消えることによって両者が同時に受け入れられている場合が少なくない。いわば憲法というお守りと、自衛隊というお守りとを並べて身につけているに過ぎない。

しかし憲法がお守りに化した時、それは、たとえば徴兵からの安全といった、戦後の日本国民の既得権益の護符以上のものではなくなってしまうのです。換言すれば、なぜ戦後憲法が再軍備を抑制し、今日まで維持されてきたかといえば、それは憲法を護る民衆運動が強力に存在し、憲法を支えたからです。しかし近年の日本国民は、この運動の遺産を、新たな護憲運動もせず無為のまま食いつぶしながら、曲りなりに憲法を存続させているといった状況のように思われます。

しかし、憲法が既得権益の護符にとどまるかぎり、日本の保守化と軍事化を押しかえす緊張感はなく、既成事実に引きずられてゆく危険が大きいのです。第二に、日本の戦後世代は、さきにふれた米国とやや似ているのですが、時間がたつほど生活水準が上昇したという経験をもっている。つまり没落経験をもっていないため、単線的な歴史観の持主になりやすく、時とともにものごとは漸次よくなっていくというイメージが強い。したがって、歴史にはどこかでカタストロフー つまり破局や没落がありうるし、それには歴史的な理由と意味があるという実感が乏しい。

もともと戦後の経済発展は、二度と軍事化と破局への道を歩むまいという国民の決意に支えられていた面があり、戦後世代の生活の上昇経験は、こうした国民意識の所産でもあったのです。ところが、最近のように日本が一方で追い上げの過程をほぼ終わり、他方で追い上げられる側勝まわることになって、低成長が続く懸念が発生すると、未来への不安が強まり、現在持っている既得権益をなんとかして保持していきたい、そのためには軍事化も軍需生産もやむをえないという、保守的な姿勢が強くなりやすい。ここでもプラスの資産がマイナスに転化しやすくなっているのです。

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